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「追跡者」 第一章 上野の森

第一章 上野の森 

 一

  男は、梅雨時の昼下がりに上野のパチンコ店にあらわれた。
  店の副支配人に教えられた番号の台に眼をやると、髪を伸ばしたうえに無精髭をはやした中年の男が座っている。銀縁の眼鏡と右頬の黒子(ほくろ)を除けば、男の妻から渡された写真と同じ人物にはとてもみえない。青白かかった肌は、日に焼けて赤黒い艶を帯びている。小柄で痩身という点では変わっていないが、一見したかぎりでは、かつての面影は跡形もなく消えていた。
  伊藤博重は、写真をジーンズのポケットに押し込むと、黒い野球帽を深めにかぶり直して店の中を歩きだした。店内は、土曜日のせいか八割近くの席が埋まり、煙草の煙と濡れた傘が放つすえたような臭いが入りまじっている。伊藤は、捜索願が出されていた男の特徴を反芻しながらその人物に近づいていった。自分より十歳年上の42歳で、身長の方は10センチ以上低い162cmのはずだ。
  青いジャケットを着た男の背後で立ち止まると、さり気なく男の横顔をのぞいた。黒子の位置と耳たぶが薄いという特徴が一致している。この春に姿を消した総合商社に勤務する男にまちがいない。写真では、色白で痩せぎすの生命力に乏しそうな顔つきだったのに、わずか3ヶ月足らずの逃亡生活で、日焼けした精悍な眼つきの男に豹変したいたのだ。
「ほかのお客さんが迷惑するから、店の中で捕まえるのだけは勘弁してくださいね」
  伊藤は、副支配人からさきほど耳打ちされた言葉を思い出した。この店は地下1階にあったが、幸にして客用の出入口は1ヶ所しかない。入口の前で待っていれば、男は必ず姿をあらわすはずだ。店を出た直後に男の腕をつかみ、そのまま路上に停めてあるワゴン車に押し込む。捕まえる際に暴れ出した場合は、手錠をかけるしかないだろう。伊藤は、背広姿の若い部下を車の中に待機させると、自分が張り込む場所を探した。入口の脇に、飲料水の自動販売機が設置されている。彼は、自販機の物陰に身をよせると、そこから20メートルほど離れた場所に腰かけている男のようすをうかがった。
  男が向き合っていたのは、従来のパチンコ台でなく、パチスロと呼ばれるスロットマシーン式の台であった。スロットマシーンといっても、カジノでみかけるような機種ではない。コインを入れてレバーを引けば自然に止まるものとちがって、コインを入れた後、横に並んで3つのボタンを1つずつ押してゆかなければならない。男は、回転するリールの絵柄を揃えるため、そのボタンを左側から順番に押していた。
  閉店時間の午後11時まで9時間近くある。もしも人違いであったならば、徒労に終わるだけでなく、一悶着起きるかもしれない。2週間前にも誤った情報にふりまわされている。男が新宿に出没したという報せをうけ、西口のビジネスホテル前で張り込んだすえに取り押さえたが、顔の酷似していた別人であった。つい3日前も、上野公園と不忍池に挟まれた一角にあるビジネスホテルに宿泊しているという情報が入った。顔の特徴と痩せ型で背が低いといった体つきがあてはまり、手配書の男にまちがいないとホテルのフロント係が断言したので、関西から男の兄を呼びよせて、該当する人物を遠くから観察して「人定」をさせた。さらに、宿帳に書かれた筆跡を確認してもらったのだが、これも無駄骨に終わった。
「店に入って、ようすをみてくるから、おまえは出入口をおさえておけ」
  無線機で部下につたえると、再び店の中へ入っていった。副支配人に話はつけてあたので、店の者に邪魔をされる恐れはなかったが、捕まえる前にもう一度、顔の特徴を確認しておきたい。
  男の黒子を間近に見るためには、彼の右隣に座る必要がある。眼を凝らしてみると、その席ばかりなく、男が座っている列は、客で埋めつくされていた。一つだけ空いていたが、男との間に4人もの客がいるので、男の姿をとらえることができない。仕方なく男と背中合わせになる席に腰かけると、すぐにゲーム機の表面に眼を走らせた。幸い表面の全体がガラス張りになっていたので、様々な光景が映っている。男が腰かけている姿も眼に入った。目当ての席を取れなかった以上は、パチスロの台を鏡がわりにして監視するしかない。
  伊藤は、男の背中を映し出すところから眼を離さぬまま、ゲームをはじめようとした。が、改めてその色鮮やかなゲーム機を前にして途方に暮れてしまった。パチスロのやり方がわからなかったのだ。パチンコなら玉を買い求める必要があるが、ここでは玉のかわりに銀色のコインを手にいれなければならない。
  ゲームセンターのスロットマシーンで遊ぶ際には、ほかのゲーム機と共通に使えるコインをセンターの入口付近などに設置された自販機で買うことになっている。思わず中腰になって周囲をみわたすと、台の脇に紙幣を入れている若い男の姿が眼についた。コインの自販機は、台の両端にあらかじめ備えつけられていたのだ。
  千円札を挿入して50枚のコインをてにした伊藤は、隣に座っている客の手元を一暼した。右端の投入口にコインを入れて、左端に付いている黒いレバーを叩くと同時に、三つの絵柄が回転をはじめる。
  そして、ボタンを一つ押すたびに絵柄のついたリールの回転が止まってゆく。彼は、隣の客をまねて捜査してみた。
  一度うまくゆくと、あとはなにも考えなくてよかった。男の姿を見失うこともなく、一人の客を装うことができる。始めは時間稼ぎのためにコインを一枚ずつ入れていたが、まわりの客をまねて3枚ずつ入れてみると、絵柄が揃う確率が高くなったせいか「当たり」が出るようになった。が、しばらくするとコインはなくなり、新たに購入しなければならない。時折、コインを追加しながら背後の様子をうかがっていると、突然、男が立ち上がり視界から消えてしまった。
  すぐに出入口の方にかけよってみたが、店の外に男の姿はない。一列ずつたしかめてゆくと、トイレ近くの席に腰掛けていた。気づかれぬように男から3つ離れた席に腰をおろした。その後、男は2度、席を移った。伊藤は、3度目の移動でついに男の右隣に座ることができた。まず黒子の位置を確認する。次に足元をみると、家を出た時と同じ青い運動靴を履いていた。煙草は、いつも吸っているというマイルドセブンである。やはり本人にまちがいない。この男は、失踪してからパチンコやパチスロでセイケイを立てて来たのかと勘繰りたくなるほど、見事な手さばきで絵柄の回転を止めるボタンを押していた。
  20分ほど経過すると、伊藤のゲーム機に異変が起こった。不意にビッグボーナスと呼ばれる「大当たり」が出たのだ。周囲の視線が、いっせいに彼のもとに集まった。
  例の男も、黒子のある方の頬をさすりながら、うらやましそうな眼でコインであふれる受け皿をながめていた。男のこいんは、まもなく底をつこうとしている。席を立ってしまうかもしれない。
「やばいな。」
  伊藤は、焦りながらも、眼の縁で男の動作をとらえつづけた。男は、ジャケットのポケットから紙幣を取り出し、コインを買って再びゲームをはじめた。閉店まで勝負するつもりなのか。伊藤は、再び
「当たり」が出ぬように念じながら、男の行動を眼で追いつづけた。
  男が立ち上がったのは、午後10時をすぎた頃であった。結局、すべてのコインを使い果たしたらしく、手にはなにも持っていない。トイレに入った後、店の外へむかって歩きだした。
  伊藤は、駆け足で男に近づきながら、口許に無線機のマイクを近づけた。
  「いま店を出るぞ」
  男は、ドアを通り抜け、上り階段に足をかけようとしている。その瞬間、男の背後にすりよった伊藤はいきなり男の右腕を強くつかんだ。氏名の確認をすませると毅然とした表情で言い渡した。
「警察に捜索願が出されています。ご同行願います。」
  男は、愕然とした表情でふりむき、眼を大きくあけた。が、すぐに観念したのか硬直していた体を俄にゆるませた。彼を乗せるワゴン車は、店の前に停めてある。
  外に出ると、降りつづいていた雨はやみ、上野公園に隣接した不忍通りに色鮮やかなネオンが灯っていた。車のドアを開けて待っていた伊藤の部下は、男の顔を眼にすると安堵したような表情をうかべた。
  伊藤は、男をドアの開かない後部座席の右側に押し込むと、その隣に腰をおろした。
「これからご家族に引き渡すまで、私達に同行していただきます。暴れたり逃げようとなさった場合は、申し訳ありませんが、手錠をかけます。逃げないと約束していただけますね」
「約束しますよ」
  男は、投げやりな口調で答えた。
  伊藤は、部下に車を走らせるように命じた。時折、男の方をみると、彼は怯えた眼つきで窓の外をながめている。
「どこの警察署まで行くんですか」
男が不安そうに訊ねると、伊藤は平然とした口調で言い返した。
「警察じゃありませんよ」
「え?」
  男は、唖然とした表情で伊藤の横顔をうかがった。
「私立探偵です。ご家族の依頼であなたを探していました」
  伊藤は、依頼人から聞かされた話を思い起こしながら、男の眼をすみえていた。

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